2008年12月18日

俳優トレーニングの科学

久しぶりの更新です
いろいろと動いてはいたのですが

俳優トレーニングの科学的アプローチを探るというワークショップに参加してきました
前の仕事では外国行っていきなり英語を話さなくちゃいけなくなったみたいな状態だったので、演劇もしっかり勉強しなくちゃね、ということで

今回は演劇大国イギリスからクリス・メグソン先生とジョナサン・ピッチズ先生にお越しいただいて、各2.5日、超ハイスピードでスタニスラフスキーとブレヒト、メイエルホリドとマイケル・チェーホフの足跡を辿りました〜

各実践家が何を目指し、どういう俳優を必要とし、そのためにどんな訓練法を用いたかということなんだけど
いうなればビートルズとクイーンとオアシス、今では同時に混在しているけど、本来は時代ごとの音を体現していた彼らが縦軸で影響を与えていった、その流れを紐解いていくという感じかな
いやー言葉にするって、しかも言葉にしにくい思想や概念とかを扱っていくのは難しい!
他の参加者の方たちも頭良さそうでしたわい

やっぱりパフォーミング・アートが難しいのは、芸術家とその素材が同じ一人の人間だということなんだよな
画家であり、キャンパスであるということ、演奏家であり、楽器であるということなんだ
いい演奏家はどんな楽器でも弾きこなせるかもしれない、いい楽器はどんなレベルの演奏家にとってもいい音を出してくれるだろう、でも一番いいのはいい演奏家にいい楽器、パフォーマーの思う理想通りに働いてくれるツールの関係だよな
当然演奏家は技術の向上にあわせて楽器を持ち替えることもあるだろう
だが俳優は自分の体を取っ替える訳にはいかんのですよ!
自分の内なる芸術家の要望に自分の体が反乱をおこすわけですよ
もしくは大変に恵まれた素材を持っていてもただのマシーンでは芸術は生まれないわけですよ

ということで超乱暴に分けてみると内面と外面をトレーニングする必要があるわけね
で、俺の印象では前者のスタニスラフスキーとブレヒトは内面、後者のメイエルホリドとマイケル・チェーホフは外面のトレーニングに特徴があるのではと思うのでして
例えば戯曲を分析して知的に行動を解析していくとか、その演劇をどう社会に問うていくのかとか、記憶を操って感情を起こしていく作業とか、これ内面の芸術性
対して身体トレーニングとか動きやわずかな刺激からセンセイションを感じていくのは外面の素材を鍛えていく方だね
実際は内面と外面は相互に影響し合い補完しあっているから分けるのもナンセンスな話なんだけど、まぁとりあえず

さらに演劇の形式でいうと、おおざっぱに現実的と劇的に分けられると思うんです
例えばミュージカル、バレエ、歌舞伎などは様式化されてるよね、映画やストレートプレイはリアルな感じですわ
その意味ではリアルに見える芝居を目指したのはスタニスラフスキーとマイケル・チェーホフ、より劇的にしていったのはメイエルホリドとブレヒトなんじゃないかな〜なんて思う訳です

そこで基本ダンサーの自分として思ったのは
  • 外面、劇的のメイエルホリド  かなり親近性を感じたし、型から入ることでドラマティックな内面につなげていくのは分かりやすい ダンスが既に彼が目指すトレーニングになってると思うけど
  • 外面、現実的のマイケル・チェーホフ  例えば両手を空に広げて立つと開放的なムードになるといった、特徴的な動きを通しての外からの操作の方が、役の内面に近づきやすいと感じた 彼のやり方を取り入れると動きと心理のパイプが密になって、むしろダンスがもっと表現力豊かになるぞ!!
  • 内面、劇的のブレヒト  何を観客に訴えていくか、そのために最も有効な方法は何かを戦略的に考えていこうと触発されました 俳優も一芸術家として存在しないとね 駒じゃなくてね
  • 内面、現実的のスタニスラフスキー  自分からは一番遠い存在だけど、どうやら演劇界のスタンダードのようで、これから仲良くさせていただこうかと 他の参加者は心得たものですっと入っていくし、遊び方を知ってるな〜と思いましたよ
てな感じですね
書くことで自分の中でもだいぶすっきりまとめれたような気が
もちろん各実践家ともに複雑な体系を持ってるし、ここでまとめたのはある一面にすぎないわけだけど、単純に彼らを比較してみたら自分的にこうなったということです
とりあえず自分は既に様式化された世界にいるので、マイケル・チェーホフと一緒に歩み、スタニスラフスキーと仲良くなるかな

しかし長くなっちゃった... 読んでくれてありがとうございます
こうならないように、これからはまめにアップするとしますか



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